2007年10月8日月曜日

漂泊者に想うこと

萩原朔太郎の詩に 『 漂泊者の歌 』 があります。

少し長くなりますが、引用します。自分が詩を愛する理由の一つであると同時に、今、自分が詩を書いているアイデンティティの一つだと思っています。


漂泊者の歌   萩原朔太郎

日は断崖の上を登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後に
一つの寂しき影は漂ふ。

ああ汝 漂泊者!
過去より来たりて未来を過ぎ
久遠の郷愁を追ひ行くもの。
いかなれば愴爾(ソウジ)として
時計の如く憂ひ歩むぞ。
石もて蛇を殺すごとく
一つの輪廻を断絶して
意志なき寂寥を踏み切れかし。

ああ 悪魔よりも孤独にして
汝は氷霜の冬に耐えたるかな!
かつて何物をも信ずることなく
汝の信じるところに憤怒を知れり。
かつて欲情の否定を知らず
汝の欲情するものを弾劾せり。
いかなればまた愁い疲れて
やさしく抱かれ接吻(キス)する者の家に帰らん。
かつて何物をも汝は愛せず
何物もまたかつて汝を愛せざるべし。

ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂白ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!


この詩を読んだ時、自分は詩に取り憑かれたんだと思います。

この憂い顔で鉄道線路の横に続く柵の後ろを彷徨いつづけている者こそ、自分だと思いました。ちょうど大学4年になって早々と就職が決まった自分は、試験前に読書に逃げる受験生のように、実世界に出て働くより、なんとかもう少し学生生活ができないものかと考えていました。自分に自信が無かった私は、いったい自分に何ができるのか、そう考えながらどっちつかずで不安定な時期を過ごしていたのです。

石もて蛇を殺すごとく、一つの輪廻を断絶して、意志なき寂寥を踏み切れと言いながら、この詩の主人公は自己が求める真理を追究するに忠実な故に満足を知らず、孤独で何物も信じることができず、愛することもできない。それ故、誰からも愛されることなく、帰るべき家郷はないのです。

それでも、彷徨い歩く主人公は求める真実を得ることができるのか? 否、です。それ故に自分は彷徨い続ける『漂泊者』だと言うのです。

この自己愛に近い、ややナルシズムを感じさせるところが、また、私には心地良かったんだと思います。でも、現実は、この詩を越えて実存するのです。そこはまたそれで面白い訳ですが。

その甘さを感じさせるところも含めて、まさに、これは自分だと思った私は、この断崖を登る太陽を自分なりに表現したいと考えるようになりました。今になって考えると何と無謀なことを考えるものかと感じがしますが、そんなことを考えながら作ったのが この詩、『太陽に』 です。

すごく前置きが長くなり申し訳ありません。この漂泊者の歌がなければ、この詩は書けなかったと思うし、下手な詩に未だに執着している今の自分も無かったと思います。

色々な詩や小説や写真やマンガやゲームや芸術が今の自分を作ってくれました。今の自分の能力も限界も全て有るようにある訳で、正直に見せたいと思います。
どうでしょうか? 何かを伝えることができたでしょうか?
是非コメントをお願いします。


太陽に    beebee

黄色いものが宙に昇り
苦しいものが歩んでいる

ゆけどもゆけども
黄色いものは重たいのだ

ゆけどもゆけども
苦しいものは軽々なのだ

全てのものは反逆している

中天に黄色いものがどっかりと坐り
苦しいものはゆらゆらゆれているのだ




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