2008年9月6日土曜日

なにか / 私が私であること


抜きがたい自己への想いに苦しむ時、
何とかして自分を客観化して、
その中にある自分自身を見詰めてみたい。

私が私であること、って何?


突然、文切り調の書き出しですいません。そうなんですよね、思春期を過ぎた頃の若い自分じゃないのに、時折、自分ってなんなんだと考え出して、嵌ってしまう。

嫌なところばかりじゃなくて、結構良い奴だとおもったり。ハハ、オイオイ。^^);

自分の中には、良いところも、いやなところもあって、みんな一緒で自分なんだと思います。否応なく今の自分がいて、逃げる訳にはいかない。そんな自分を良く見てみたい。でも、なるようになった、理由もあるはずで、それをしっかり感じなければならないように思います。

別の言い方をすると、私は人間はベクトルだと考えています。方向性を持った力だと思います。

今ある自分は、今偶然にあるのでは無くて依って立つ背景があり、積み上げてきた想いがある。それぞれが力を持っていて、今の自分を押し出している。その力も一緒にして、そこからジャンプする自分。

その想いの集合体のようなものが自分で、色々な要素を内包している。だから、良いとか悪いとかじゃなくて、今ある自分。それをしっかり見なくてはならないように思うのです。

今の自分を今の自分にしている要素というか、これまでの自分の考えや行動、積み重ねて来た想いをしっかりと見詰める必要があるように思います。

そんな事をちっとも考えなくて、知らんぷりをしていても、何かの拍子にそんな自分への想いに捕らわれて、身動きできなくなる。^^);

私は私であるが私なのだ、それを否定的に読むか運命と読むか、自然体に受け入れるか、人それぞれだと思います。その抜きがたい想いを書きたかったのです。それが伝わったら、成功です。

きっと、その時の自分の調子や考え方で理解も違ってくる。それでもいいんだと今は思っています。これは少し年を経て、ずるくなった証拠でもありますが。^^);







なにか / 私が私であること


私の中に
醜いなにものかがあって、
私が私であるようにしている。
私の中にあるなにものかを
しっかりと掴みだして、
目の前においてみよう。
しっかりとそれを見つめよう。
じっくりと観察しよう。
そして
私の中にあるなにものかに
言うのだ。
私が私であることは重要なことであるが、
重要であるものは何一つ私の中にはないことを。
しっかりと教えてやらなければならない。
私は私であるが私なのだ。
そのどうしようもない想いこそ、
捨て去ることはできない。
だから
じっくりと観察しなければならぬ。
私が私であるために、
私であることを。






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2008年8月9日土曜日

言葉が石英だったら


話した途端に、あ痛ぇ、失敗したなんてありませんか? 言わなきゃよかった言葉を吐き出してから失敗に気が付く。

もう取り消せないけど、コチンって落ちちゃった言葉を、みんなが気が付く前に、爪先で蹴っ飛ばして遠くに飛ばしてしまいたいなんて、思ったことはありませんか?

そんな感じを詩にしてみました。^^);

では、なぜ石英なのでしょうか? これは自分でも良く分からないのですが、父親の鉱物好きから高じた水石の趣味に影響がありそうです。

実は父親の趣味は困ったもので、本人が凝り性なのはいいのですが、それでずいぶん家族が迷惑します。初めは釣りだったそうですが、交通事故に遭ってから、他人から生き物を殺しすぎたからだと言われた父は、水石の趣味に嵌ります。

水石というのは、鉱物のような成分が重要であるというより、姿形が良い石を色々なものに見立てて飾るようなものです。庭に山水を表現するように箱庭と同じ発想だと思います。

山の形だとか、峰の形だとか、さらには達磨に似ているとか、猿に似ているとか拡がって行きます。おかげで、小さかったわたし達兄弟は休日というと父親に連れられて、一日中、川上から川下にかけてリュックに石を積めて歩く羽目になりました。元もと鉱物に興味があった父はさらに、化石や宝石にまで手を出して行くことになります。

自宅の床の間から居間に至るまで石だらけになった金沢の実家は、壁面に大きな本棚が並び、中には石がぎっしりという状態となり、最近まで地震がない地方ということで良かったのですが、畳に寝そべって天井を見上げると石に囲まれているということになりました。

大晦日の年中行事に大掃除がありますが、その石を取り出し磨き、棚の煤を払い、拭いて、石を元に戻す。そんな作業に数日掛かるようになります。

さらに言うと、父は鉱物好きから水石趣味で山川を歩くようになり、地質調査に興味を持った父は副業で温泉の掘削までやるようになり、何本かの温泉を掘っています。

それから石が置けなくなって、父親の趣味は植木に移って行くのですが、なんでも人迷惑な趣味に家族が振り回されることになりました。その先の話はまた別の機会に譲ります。

話しが長くなりましたが、要するに私は小さい頃から石と一緒に育ったわけで、言葉が石に成るなら石英と頭から決めていた節があって、迷わず表題を書いています。

薄く白味がかった表面の奥に何か違う色を隠しているような感じ、そして手に持った冷たさと重さがぴったりだと思ったのではないでしょうか。

口から出した言葉が固まって落ちるという発想は、次の詩にその初めがあります。




言葉


吐き出した言葉が
コチンと固まって落ちた。

ぼくは、ギャッと
叫んで舌を噛むと
舌足らずの人間になった。

にやけちゃってて、言葉がでない。

ぎゃっ。




大学3年頃に書いた詩です。読むと顔が赤くなるような詩ですが、実は結構これが気に入っていて、吐き出した言葉が固まって落ちるという考えと、ぎゃっと舌をかんで舌足らずの人間になるという考えが頭の中に残るという次第になりました。

顔を赤らめるような恥ずかしさと、しまったという想い、それがその場に浸透する(固まって落ちる)までの間と、気付かれたかなという衒いの表情、そんなこんな想いを表現したつもりです。

はは、そんなこんなで、この詩ができたのですが、長々といやになりましたかね。

懲りずに是非読んで見てください。^^);







言葉が石英だったら


口に出した言葉が
石英のように凝って、
カチリと落ちたら
いいだろう!?


ぼくはお喋りに夢中になって、
なにがなんだかわからなくなって、
幸福だろう。


でも
カチリと落ちた拍子に
言葉が欠けでもしたらどうしよう!?
舌でも噛んだ気がするのかな。


落ちた言葉を
知らずに踏みでもしたら
どうだろう!?
ピリリッと舌に痛みが来るのかな。


その時 ぼくは
ひとつひとつ拾い上げて
手にいっぱいになって
もう一言も喋らないと心に決めて
黙って立っていようと誓うんだ。





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2008年7月26日土曜日

心の雫について


少し遊んで見ました。詩を書いてみたら、何か面白いかもと形を整えてみました。言葉って面白いですよね。何かの拍子に遊びが見えて来たりする。色々冒険したいです。

静かに想いが拡散していく様子を書きました。そして繋がっていく、宇宙に繋がっていくという感覚です。静かに流れていく心の想いが、何処かで誰かと繋がっ ている。満ちてきてふっと落ちる心の雫が伝っていく。拡がって行く。

色々な想いがWEBにはあって、繋がっている。特にここに集うみなさんのように、新しい発想や思想、喜びを探して集まってくる人達、それは想いが零れ落ちるくらいの人がいっぱいいて、拡がっている。

そんな繋がり、奇跡のような世界を大切にしたいと思います。

天上からポトンって一滴落ちてくる雫が、空を見上げているあなたの手の平に落ちてくる。 繋がりますか。^^);








心の雫




静か
に、耳を
傾けよう。遠
くに聞こえて来る
音楽がある。それは
冷たい流れが零れている
から。心の雫が溢れて、流
れているから。零れて行く想い
が流れて行く。それは静かな音楽
で繋がっている。上から下へ繋がって
いる。それは拡がっている。遠いところ
から近いところへ拡がっている。それ
は下から天上へと繋がっている。雲
の糸のように、繋がっている。
この部屋から宇宙へと
拡がっている。
想い






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2008年7月20日日曜日

友人との酒の帰りに泣いてしまったこと

何やら過去の記憶が蘇ってきて、どうしていいのか分からなく成る時があります。この頃は若くて突っ張っていて、自分では平気だと思っていたけれど、肉体的にも疲れていたんだろうと思います。

なにやら危なっかしくて、それでも何かなんでもできそうな時期でもあったような気がします。懐かしく感じるは年を取ったのかも知れません。

アルコールという触媒がもたらす、精神のアイドリングのような気がします。悲しいのではなくて、涙を抜く、そんな必要があったんですよね。

余分な言葉や余分な贅肉を削って、日常の出来事や時間で人を感動させれれば素敵です。言葉に力を。^^);





帰りの電車で / これもまた過去の記憶


私は自分が泣くとは思わなかった


同僚と酒を飲み
語り合い
別れた時
涙が出た


酒を飲んで居ても友に言えなかった
卑しい自分についての想いが
忘れてしまっていた何かの記憶が
突然
私を泣かせた


私は帰りの電車の中で泣いた
泣きじゃくり
背をずらし崩れ落ちた
他人を気にする余裕もなかった


寮へ帰って独りになるとまた
訳も分からず大声で泣いた
部屋の中を転げ回り
独り泣きじゃくった


布団を蹴り
空き缶を跳ね飛ばし
背広をしわくちゃにして
独り泣いた


私は酒に酔っぱらっていたのか?

私は自分が可哀想で/可愛くて泣いたのか?


何も分らなかった
泣いて 泣いて
私は眠ってしまった


これもまた過去の記憶だが






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2008年7月13日日曜日

手で繋がる想いについて

手を重ねると伝わってくるのもがありますよね。言葉じゃ伝わらない想いも伝わるような気がします。

特に男と女では大分子供の感じ方が違うようです。女性は10ヶ月も同じ肉体の一部として共有しているせいか、子供を自分の肉体の延長として感じるように思います。でも男はまったく違うんです。

まず実感が湧かないのです、自分の血が繋がっているという感覚。顔が似ていると安心する(当たり前だけど)けど、見ていると何かの仕草に自分とそっくりな動作をする時があって、それを見るとドキッとします。

風邪をひいて寝ている子供の額に手を当てると、不思議に子供との絆を自然と感じるんですよね。手って偉大です。

子供が小さい時はおでこおでこをくっつけて熱を測ってたりしました。色々信じられないことばかりの世の中ですが小さい頃のこの優しい想いだけはみんなが共有する想い出のような気がします。

自分の子供達もまた、自分の子供達の額に手を当てて、同じように優しい想いを持ってくれれば良いと思います。

額に手を当ててみると、何か優しい幸せな気持ちになりませんか?





額に手は繋がっている



大丈夫?
そう言って母はいつも
額に手をやった
そう言えば額の熱は
手で繋がっている


39度の熱を出した
娘の額は汗ばんで
手を伸ばす僕の手を強く打った
娘に出来ること
全てやって来たのか?
熱は強い力で僕の心を打った


手をかざすといつも
目を閉じるので
真似をして
ふざけて何回も止めて見せた
息子は熱があるのに
口をふくらまして
悔しがってみせた


手を乗せると
額は汗ばんでいる
元気なように見えて
少し震えていた
小さかった
息づいている
子供の小さな生命が
ぼくを感動させた


考えて見ると人の額は
手で繋がっている
優しい想いで繋がっている


自分の額に手を当ててみた


初夏の日影に座るぼくは
ひんやりとして
少し夢を見ているよう
自分の額に手を伸ばす
少し冷静になって
目をつぶり
椅子に深く腰を掛けた


そういえば
額に手は繋がっている





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2008年7月1日火曜日

いつもの席のいつもの手順



リングノートにボールペン、いつもの席で珈琲を飲んでいます。改札口を見ながらペーパーブック、ヘッドフォンで流す音楽は結構良い感じ。^^);

みなさん行きつけの喫茶店があると思いますが、最初の動作って決まってませんか?

窓側 or 通路側?、クッションがいい席 or 壁に凭れる席?、ミルク・砂糖 or ブラック?、文庫本だったりコミック?、店の音楽 or ヘッドフォン?、ノートブック or リングノート?

最初の手順をすませてから、やっとゆっくりします。さあ、何します? って感じでしょ。そこから始まりです。そこでいつもの席にまた、かわいい彼女を見つけたら、今日は良い日ですよね。^^);







いつもの席のいつもの仕草


今日もまた
窓硝子に映った自分を見て、
少し微笑んでみせる。

いつもの挨拶
いつもの仕草、

駅前の喫茶店の指定席、
リングノートにボールペン、
考え事のスタートの決まり事。


でも今日のぼくは
少しふてくされていて、
窓に映る自分も不格好だ。
もともと太った姿だけど、
まったく
今日は乗り気がしないよ。
ペンの走りも湿りがち。


窓の向こうに君の姿でも見えないかな?

いつもの席の
いつもの角度、

改札口の見える席で、

いつもの挨拶
いつもの仕草、

君は映っていないけどね。


別に練習でもないんだけれど、
少し首を傾(カシ)げて
挨拶の真似事なんて、
下心ありありが
笑っちゃうね。


やっぱり梅雨明け前は湿気で
紙も湿(シケ)っている。
だって
ペンの走りが遅いもの。

そんな時君が見えないかな?

風が吹いてくれなくっちゃ
夏が終わらないし、
夏が始まらないよ!






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2008年6月1日日曜日

生き物の営みに感動する

小学生の頃の夏休みの宿題の理科の観察に、空き瓶に蟻の巣を作らせて観察しま した。大きめの広口瓶の底に土を入れて、上から蟻を何匹も入れると自然に巣を作りました。

役割分担もしっかり出来上がって、餌をやると、何匹ものありが取り憑いて、穴の中に運び込む様 子に感動しました。すごいなと想いました。

それからグラウンドの大きな石をひっくり返すと、蟻の倉庫や育児室があって白い卵や蛹が見つかりました。たくさんのアリが飛び 出してきて、右往左往、見飽きなかったような気がします。

その卵や蛹をまた瓶の中に入れてやると、いつの間にか運び込まれて、違う巣の子供でも育てるんだとアリの愛情に感動したりして、そんな 新鮮な気持ちって重要ですよね。びっくりしたいです。^^);






生命の感動


思い出してよ
初めての感動を。
君は何からだろう?
僕はアリの行進から。
次々と穴から出て来るアリが
一列になって進んで行く。
通りの道の葉っぱやタンポポの種を小さな身体で持ち上げて
運んで行く。
巣には卵や蛹がいて
大人のアリ達に守られている。
育児室があって倉庫があって菌類を栽培して、
夏には大空へ飛び立つ雄達。
巣別れする雌を求めて
儚い命を燃やす。
明らむ光が見え地上に夜露の垂れる時、
羽を落とし夢を終える。
こんな小さな命に
大きな一生。
あっという間の一生が大きな時の流れの中にある。
日の光が力を持ち始める時、
新しい一日が始まる。
新しい一族の始まり、
それはあたかもひとつの文明のよう、
始まりがあって終わりがある。
長い時間の流れの中で続いていく摂理。
アリの行進にぼくが感動したのは
本当の話だよ。
ねえ、
君の話を聞かせてよ。




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2008年3月30日日曜日

人生の公平性に想うこと


福沢諭吉が人の上に人を作らずと詠んだ時、長い間の身分制度になれた人間には青天の霹靂だったと思います。

また日本は近代から現代に至る過程で、色々な不幸な出来事に直面しながらも、世界の中でも有数の自由で豊かな生活を手に入れました。

でも古いヨーロッパがそうであるように、残念ながら完全な自由平等はあり得ません。門閥は厳然として存在し、経済的な格差も広がるばかりです。政治家、経済人、俳優・役者に至るまで二世のオンパレードです。

幸せなことに、普通の中産階級の家に生まれ、どちらかというと父権社会的な古い家庭に育った自分にとって、武士は喰わねど高楊枝、経済的な格差はそれほど気にならないのです。

しかし、天空を飛翔する自由な想念と芸術の才能に関しては羨望して止まない先達や天才がいます。

そして突然想うのです、” 人生は不平等だ ” と。

そうすると全てが不満に想えて来てこんな詩が生まれました。
認めたい気持ちと、認めたくない気持ち、どちらが強いのでしょう?




人生の平等さについての考察


天は人の上に人を作り、
天は人の下に人を作り給う。

天は人に二物を与え、
天は人に三物を与え、
天は人に四物、五物を与え給う。

だから彼は家柄も育ちも良く、
頭も良く、
スポーツ万能で、
スタイルも顔も良く、
性格も良く、
女性の憧れの的だ。
そのうえ僕も彼が大好きなんだ。

たとえ天に唾を吐き、
地に痰をを吐き、
口に口内炎を飼い、
奥歯の虫歯に麻酔を掛けても、
僕は彼を許すだろう。

文句はある。
でも人生は不平等だ。
人生は不平等であることにおいて
天は全てに平等なんだ。




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2008年3月21日金曜日

どうしてウサギは目を赤くして泣くのか


カラスの七つの子ではないですが、自分が小さな子供になって泣いている、そんなセンチな想いをつい口ずさんでしまいます。

いつまでたっても、自分を可哀想に思うのは幼い証拠かも知れないですが、それでも顔をうずめて泣いていたいと思う時があるんですよね。

ぼくはこれを、『 傷つける想いと傷つく想い 』と呼んでいます。ある時はだから、傷つける想いに僕たちは捕らえられる。どうしても逃れられない感情なんだと思います。

こころに大切なものがあるから、作用・反作用が起こるのだと思います。傷つけたくない大切なもの、それが自我なんでしょうか。

ここに二題の詩を載せます。『 耕ちゃん 』は初期の作品です。『 ウサギ 』は最近書いた詩ですが、読み比べてみると、背景は同じなんだと改めて気が付きました。

甘ったるい感傷ですが、何故か口ずさむのです。どうでしょうか?




耕ちゃん


耕ちゃんは泣いた。
泣いて 泣いて
耕ちゃんは
ウサギになった。
耕ちゃんが眠った
原っぱの上に
丸い大きなお月さま。
耕ちゃんはウサギになって
一人で泣いた。



   *耕作…初期のペンネームです。




ウサギ


何時までも小さな、

子供でいたい。

目を泣き腫らした、

ウサギのように、

いつまでも独りで、

泣いていたい。





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2008年3月17日月曜日

嵐の後の雨の雫が蜘蛛の巣に揺れている


就職してすぐに独身寮に入りました。学生時代から詩を書いていたので、当時もノートに残していたのですが、これもその時の初期の詩を修正したものです。

田舎から出て来て、職場で緊張して働いて、やっと独りの部屋に入ると落ち着いて、何かが出来そうなんだけど、結局なにもできなかった時代でした。

日常の色々なものが心の網に掛かっていて、嵐の後の雨雫に揺れる蜘蛛の巣のように、ひっかかって、揺れているのです。ゆらりと重たく揺れている。

見上げると、その雨雫の一滴は天上から鉛直線上、一直線に自分に落ちてきます。そのまま脳天を貫いて、瞬間、私は闇に繋ぎ止められる、そんなイメージです。どうでしょうか。




春の夜に


きょうもまた
独り、
みなの寝静まった寮に
幼児の瞳を輝かし、
いじけた手足を伸ばす時、
心は嵐の後の
蜘蛛の巣のように、
暗く重たいものを抱えている。
糸を引き、
雨雫が私の心を闇につなぎとめる。
春の夜に。




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2008年3月15日土曜日

花の博物館にて



近所のお気に入りの場所に、千葉市の花の博物館があります。少し時間を置いて出かけると、前庭に植えられた花が変えられて、また違う雰囲気になっているのです。

今はパンジーが色違いに植えられて、文様を作っています。菜の花も綺麗に青空に映えています。これからチューリップ、薔薇へとテーマを変えて夏から秋まで楽しませてくれるのです。

写真は入り口の花桶を撮ったものですが、今一番美しい瞬間の花がぎゅっと詰まっている感じが良いでしょう。久し振りに温室の中の花も写真に撮りました。漸次ブログに貼って行きますので楽しみにしてください。

また、ここには併設してイタリアンレストランがあって、お昼の時間やお茶を楽しませてくれます。中庭に面したテラスに出れば、もう少しすれば気持ちよい風に顔を舐られることでしょう。そこもお気に入りのひとつです。

この詩は季節外れの夏のシーズンのものですが、このレストランで作りました。雰囲気は分かると思いますがどうでしょうか。^^);




お花畑の犬


お花畑はやっぱり春がいいかな。
紅い花や黄色い花も熱と湿気でいじけているようだった。
くろぐろした曇天に圧迫されて空気も熱く重たい日だ。
それでもレストランは昼食時で人でいっぱいだ。
庭に面したテラス席には犬連れの夫婦がランチタイム。
窓ガラスの外に出るのはうんざりだけど不思議に、
室内から見ると静かな風景でご主人のパイプもいい感じだよ。
シープドッグは飼い主の足下で元気に骨をかじっている。
犬ってどうして息づかいが荒いのだろう。
そりゃ、夏なんだから熱いには違いないよね。
前足と首筋に白いぶちのある真っ黒いその犬は
ふいに口を止めては飼い主を見上げたりする。
とっても忠犬のようだったよ。
両足で骨を押さえつけてかぶりついているその犬は
まったく一生懸命なんだ。
毛皮だから鼻筋に汗はないよね。
その時急に陽射しが強くなって、
一瞬その場の情景が影絵のように見えたんだ。
やっぱり夏だね。
情景は印画されたよ、夏だって。





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2008年3月8日土曜日

立ち止まる瞬間について



自分を振り返って考えて見る時ってどんな時でしょうか。自信を無くして不安になっている時? また、卒業や入学、入社等、新しい人生の展開に立ち至った時でしょうか。

自分に自信があって何でもできると思っていた時代から、少し回りが見えてきて自分のこれからについて考えないといけない時、上手く気持ちが切り替えられればいいと思います。

そんな時、ちょっとした勇気が必要なんだと思います。自分が歩いて来た道を振り返って、少しの想いが背中を押してくれる。また勇気を与えてくれる。人によってそれは少しづつ違うのだと思います。

あなたの背中を押してくれる力ってなんですか?それでも、一瞬立ち止る自分がいる。そんな瞬間が気になるんです。どうでしょうか。^^);





立ち止る影


誰もが想い出を求めて立ち止る時、
静かな息を継ぎ少しく肩を落とし振り返る。
回りの木々が色彩を落とし、
静かにあなたの瞳を見守るだろう。
あなたはふと手を見るだろう。
幼く柔らかった両手は
人生の荒波を掻き分け、
かさつき、
場所によってはささくれ立って、
鋭い痛みで思わず舌打ちをさせる事だろう。
さあ
また歩き出そう。
足下を確認して一歩前へ出る。
改めて回りを見回し、
流れていく人混みを視野に流しながら、
もう一歩前へ出る。
後はまたあなたを動かす力が
背中を押してくれる。
一瞬の人生の痛みがあなたにアクセントを与え、
まだ自由に歩み始める、
後に立ち止る影を残して。




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2008年2月21日木曜日

遅れているという脅迫観念について


いつも遅れているという脅迫観念があるのです。自分だって多感だった時代があると想うのですが、どうも人より遅れている、と思う。^^);

中学生の時、高校生の時、自分は何を考えていたのか 、もしくは、何を考えていなかったのか、と時折考えます。

時代時代に合わせて感じるべき何かがあるとしたら、やっぱ遅れて来たのかと、心配になるのです。
掴まえたもの 、とりこぼしたものは何だったんでしょう?



遅れてきた少年
beebee
イデオロギーも歌もみんな遅れて来た。
生きて来た時間と意識の時間のずれを想う。
遅れてきた少年かな?
でも、
良くものが見えず、回りを確認もせず、
ただ急いでいた訳ではない。
気が付くとずれていた。
遅れているのか、
遅れてきたのか、
ぼくは心を締め上げられる。
追いつけない!?
でも遅れている。

もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれがいる。
もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれ達がいる。

共感するものよ
歩き回るおれ達を許してくれ。
彷徨し挫折するおれ達を見ていて欲しい。
いまあがき苦しむおれ達が
いつか掴まえるもの(取りこぼすもの)は何かを!

もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれ達がいる。
追いつけない、
でも歩いているおれ達はいる。
おれ達を見ていて欲しい。
いまあがき苦しむおれ達がいつか掴まえるもの
(取りこぼすもの)を!
 

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2008年2月18日月曜日

ガラスコップの水滴に写る風景について

禅問答ではないですが、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま使いたいと思いました。『そこにあり、ここにある』といった表現です。自分のありようがそんな単純な言葉で表現できたら面白いと思いました。それで電子メモに言葉を書き留めて、定期的に眺めたりしていました。

そんな時、行きつけの喫茶店で最初に出されるコップの水滴をみて、この詩ができました。水滴に映る姿に幾つもの世界を見る。そんな詩が書けないかと思いついたのです。

自分の今の有り様は、過去の依って立つところの背景というか、流れがあってある。突然何も無しに今の自分が在る訳ではない。ただそこにあるというのは難しいと思います。

『そこに在る』ということ、実存とはそんなベクトルとして在ることだと考えています。方向性を持った進む力として僕たちはいる。

今の価値観、想いもなるようになった理由があるわけで、今の自分は今あるようにある。ひとつの必然だと思います。でも、違う自分も色々あっていい。

進む道の中で選択に迷うことは色々あって、その時々は最適の選択をしてきたつもりだけれど、でも、違う選択があっても良かった。また違う自分が在ったような気がする。そう思いませんか?

そこにも、ここにも。違う自分があっていい。それを水滴に写る姿になぞらえました。幸せはそこにあって、ここにある。不幸もしかり。

なかなか、この詩を読んでそこまで理解するのを求めるのは難しいと思います。それで、コメントを詩の後に追記しています。今回もそのまま載せますので読んでみてください。想いは伝わったでしょうか?

やはり、それを情景描写するにはまだ私の力がなかった次第です。これからも色々、実験的な手法をやってみたいと思っています。




ガラスコップの水滴


ガラスコップの水滴を見ていた。
ひとつひとつに映る宇宙。

そこにいることの幸せと、
ここにいることの不幸を想う。

わたしはそこにいて、
わたしはここにいる。
わたしはむこうにいるかな?

それはガラスコップの水滴に映った、
それぞれの自分の姿。

実存することを想う。



**
ただそこにあるというのは難しい、
今の自分は今あるようにあるわけで、
ひとつの必然だと思います。

でも、違う自分も在ったような気がする。
そこにも、ここにも。違う自分があっていい。

実存とはそんなベクトルとして在ることだと、
考えています。


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2008年1月9日水曜日

夜明け時のアルバイト

学生時代を過ごした街はやっぱり懐かしいですね。今考えると、地方の文化都市の魅力が分らなくて、早く就職して東京に出ることしか考えてなかった。贅沢な時間をもっと味わっておけばよかったと、今は少し反省しています。

冬のアルバイト、肉体労働は疲れ切った後の休憩が一番。吐く息は白く、手も身体も汚れて、寒さに悴んで、でも身体の奥は充実した労働に微熱を残している。

壁に凭れて色々考えます。そんな想い出あります。^^);




夜明け時のアルバイト


壁にもたれながら先輩とふたり
休憩をした。
明け方までの青果市場のアルバイト。
色々な野菜が振り分けられて、
段ボール箱に入れられた。
どんな正月料理になるんだろう?
馴染みのお得意さんは市内の料亭だった。
眠らない街
北陸の金沢は古くからの商業都市で、
小さいながらに夜明けまで営業の店があった。
出来すぎの話だけど、
壁に凭れながら先輩は大きな声で詩吟をする。
田舎が粋な街だった学生時代。
暁の光が倉庫に射して来て、
汚れた壁がもえるようだった。
一日の始まりに終わるアルバイト。
それでも時間は止められなかったのはどうしてだろう?
流れ着いた故郷、でも
どうしても出て行きたい街でもあった冬の思い出。




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2008年1月8日火曜日

口を突く言葉こそ真実を内包する


コトバに力をがテーマです。心を揺すぶれる力って何 だろうと考えています。もっと、見えるような力を帯びたコトバを書きたいですね。

やっぱり、コトバには力があって、実現する力を持っている。古代人は言霊を信じていました。実はわたしも信じていたりします。

考えてみると、思わず口にするコトバが本質を表わしている、そんな 経験を我々は経験します。それは、あたかも真理と交歓するかのような感覚で、実は心の潜在的なところで長く醸成された想いなのだと思います。

ふいに口をつ いたような感じですが、実は昔から考えていることで、真実を内包している。人間の意識とコトバは深いところで繋がっている、そんのことを考えていま す。

そして、コトバで表わすイメージは対立する要素の間に規定さ れていると考えています。別の言い方をすると対立する二つの要素を含んでいると考えています。例えば、陰と陽、寂しくて賑やか、小さくて大きい、強くて弱 い、甘くて辛い、等です。

その間を縫って繋がっていく想いというものがあって 、それが過去の記憶、民族、生物、輪廻する意思、宇宙の意思のようなもの と繋がっているという感覚がするのです。うまく言えいのですが、そんな感じを 詩にしたものです。無茶苦茶なような理論なんですが、そんな感覚なんで す。

言い続けること、考えつづけること、主張し続けるこ とで、最後には生き残る定説になるのではないかと考えていて、しつこく繰り返し書いています。どうでしょうか?




矛盾する想い2


書き終わったコトバが
再び口をつく。

思わず繰り返すコトバが
口をでる。

想いは あるか?

時間を超えて伝わる民族のコトバが
身体の奥の奥の根源の記憶にある。
時間を遡り甦る生き物のコトバが
輪廻を繰り返し血脈する記憶にある。

想いは あるか?

揺れる ゆれる
揺すぶる ゆすれる
振るう 震える
擦り なでる
触り 確認する

あなたの わたしの

想いは あるか?



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