2007年10月9日火曜日

散文詩について

金沢大学出身の私は、たまたま先輩であるということから井上靖という作家の作品を読むようになりました。正確には大学の母体が第四高等学校だったということで、先輩と言うにはおこがましいのですが。ただ、それまで『しろばんば』という小学校の国語の教科書に出て来る小説の作家というぐらいしか知識の無かった私は、そんな偶然から彼の作品を読むようなりました。一度は地元の文学館主催の講演会にも参加したほどです。

彼の作品の中で一番面白かったのは、自分の出自を題材にした、『しろばんば』、『夏草冬濤』、『北の海』の三部作ですが、もう一つ、詩集『北国』という散文詩の詩集がありました。

それまで詩といえば自由詩しか知らなかった私には非常に新鮮に思えました。短歌や俳句が入り安いという訳ではないのですが、定型であるところから、素人でも言葉を組み合わせて歌を作り安いと思います。それに比べると自由詩は自由に何でも思ったことを書けばいいのだと言われても、法則がない分、返って書きにくい。何をどういう風に書けばいいのか初めは分りませんでした。

『自由』って、規制されるものがあって始めて自由でありうる。だから、自由詩は自分の中で自分を縛るもの(自分なりの考え方、ルール)のようなものがないと書けない。それは自分なりの言葉の作り込みであったり、スタイルだったりするのだと思うのですが、それって難しい、取っ付きにくい。散文はその点、リズムや字面なんか考えずに、まず事実や事象を正確に記述することで、読み手にイメージを抱かせればいい。

こんな方法もあったんだ、これも詩なんだと、納得させられるところがあって、非常に新鮮でした。また題材も平易で分かり安く、誤解のしようもない。自由詩に憧れていながら、そんなことから書けなかった私は、無謀にもこれならできるかもと思いました。無茶苦茶な話ですが、実際そう思って何編かの散文詩を書いています。

『ドッチボール』はその意味で題材にも井上靖の影響があって、少年時代の平凡で『みんな』に埋もれている男の子が他者とは違う自分を意識する瞬間を書いたものです。唐突に出て来る耕作という名前は、その頃小説を書く時のペンネームなんですが、分らないですよね。^^);

でも、最近書いている詩(ようなもの)の中にも、自分の中にあるその源流に繋がるものがあると、この頃感じています。どちらかと言うと私は、言葉自身を比喩的に表現するよりも、具体的な事象を書くことで読み手に何らかのイメージを抱いてもらおうとする手法が多いような気がするのです。

どうでしょうか?読んで見てください。


ドッチボール   beebee

乾いた冬空の下で、ぼくたちは白く太い息を吐きながら、汗にぐっしょりとなってドッチボールに戯れていた。ぼくはみんなであり、みんなはぼくであった。白っぽいホコリを立てて風が通り抜けていく広場で、ぼくたちはドッチボールに夢中だった。

「耕作は、いつも、Hの後ろにカクれているんだな。」

敵側の悪意ある子供の言葉に、ぼくは一瞬真空に身体を縮めると、素早く味方を見回した。しかし、その言葉は、みんなの吐く白い息と同じように、透明な虚空に消えて、みんなはみんなの遊びに没頭していた。
ドシン、突然、ぼくの胸にボールは当たると、大きく上方に跳ね上がって、再びぼくの腕の中に落ちた。それはあっけないほど簡単だった。ぼくは初めて捕ったドッチボールに身体中を熱くさせながらも、心の奥底に、自分を冷たく見据えている目が生まれたことに気が付いていた。


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