2008年2月21日木曜日

遅れているという脅迫観念について


いつも遅れているという脅迫観念があるのです。自分だって多感だった時代があると想うのですが、どうも人より遅れている、と思う。^^);

中学生の時、高校生の時、自分は何を考えていたのか 、もしくは、何を考えていなかったのか、と時折考えます。

時代時代に合わせて感じるべき何かがあるとしたら、やっぱ遅れて来たのかと、心配になるのです。
掴まえたもの 、とりこぼしたものは何だったんでしょう?



遅れてきた少年
beebee
イデオロギーも歌もみんな遅れて来た。
生きて来た時間と意識の時間のずれを想う。
遅れてきた少年かな?
でも、
良くものが見えず、回りを確認もせず、
ただ急いでいた訳ではない。
気が付くとずれていた。
遅れているのか、
遅れてきたのか、
ぼくは心を締め上げられる。
追いつけない!?
でも遅れている。

もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれがいる。
もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれ達がいる。

共感するものよ
歩き回るおれ達を許してくれ。
彷徨し挫折するおれ達を見ていて欲しい。
いまあがき苦しむおれ達が
いつか掴まえるもの(取りこぼすもの)は何かを!

もう遅い、
もう遅いと、
つぶやくおれ達がいる。
追いつけない、
でも歩いているおれ達はいる。
おれ達を見ていて欲しい。
いまあがき苦しむおれ達がいつか掴まえるもの
(取りこぼすもの)を!
 

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2008年2月18日月曜日

ガラスコップの水滴に写る風景について

禅問答ではないですが、頭に思い浮かんだ言葉をそのまま使いたいと思いました。『そこにあり、ここにある』といった表現です。自分のありようがそんな単純な言葉で表現できたら面白いと思いました。それで電子メモに言葉を書き留めて、定期的に眺めたりしていました。

そんな時、行きつけの喫茶店で最初に出されるコップの水滴をみて、この詩ができました。水滴に映る姿に幾つもの世界を見る。そんな詩が書けないかと思いついたのです。

自分の今の有り様は、過去の依って立つところの背景というか、流れがあってある。突然何も無しに今の自分が在る訳ではない。ただそこにあるというのは難しいと思います。

『そこに在る』ということ、実存とはそんなベクトルとして在ることだと考えています。方向性を持った進む力として僕たちはいる。

今の価値観、想いもなるようになった理由があるわけで、今の自分は今あるようにある。ひとつの必然だと思います。でも、違う自分も色々あっていい。

進む道の中で選択に迷うことは色々あって、その時々は最適の選択をしてきたつもりだけれど、でも、違う選択があっても良かった。また違う自分が在ったような気がする。そう思いませんか?

そこにも、ここにも。違う自分があっていい。それを水滴に写る姿になぞらえました。幸せはそこにあって、ここにある。不幸もしかり。

なかなか、この詩を読んでそこまで理解するのを求めるのは難しいと思います。それで、コメントを詩の後に追記しています。今回もそのまま載せますので読んでみてください。想いは伝わったでしょうか?

やはり、それを情景描写するにはまだ私の力がなかった次第です。これからも色々、実験的な手法をやってみたいと思っています。




ガラスコップの水滴


ガラスコップの水滴を見ていた。
ひとつひとつに映る宇宙。

そこにいることの幸せと、
ここにいることの不幸を想う。

わたしはそこにいて、
わたしはここにいる。
わたしはむこうにいるかな?

それはガラスコップの水滴に映った、
それぞれの自分の姿。

実存することを想う。



**
ただそこにあるというのは難しい、
今の自分は今あるようにあるわけで、
ひとつの必然だと思います。

でも、違う自分も在ったような気がする。
そこにも、ここにも。違う自分があっていい。

実存とはそんなベクトルとして在ることだと、
考えています。


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